BAR
Rumbullion
熊本市の繁華街にある豊富なウイスキーやカクテルがリーズナブルに飲めるバー
Rumbullion Chronicle
1プロローグ 扉を開ける
エレベーターが八階で止まる。
扉が開くと、熊本市の夜から少しだけ切り離されたような廊下に出る。
外から店の中は見えない。
初めて来た人は、たいてい少し迷う。
ここで合っているのだろうか。
常連ばかりの店ではないだろうか。
バーの作法を知らなくても大丈夫だろうか。
それでも、誰かが少しだけ勇気を出して、店の扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
私は、その人の最初の表情を見る。
歩き方を見る。
声の硬さを見る。
緊張している人には、まずカウンターを勧める。そして、こう尋ねる。
「普段は、どんなお酒を飲まれますか?」
答えられない人もいる。
バーに慣れていなければ、自分が何を飲みたいのかさえ分からない。
そんなときは、聞き方を変える。
甘いものがよいか。
さっぱりしたものがよいか。
炭酸は好きか。
どんな果物が好きか。
会話をしながら、その人の一杯を探していく。
やがて、一杯目が出る。
グラスに口をつける。
少しだけ表情が緩む。
そこから、その人の夜が始まる。
店の名前は、BAR Rumbullion。
ランバリオン。
「乱痴気騒ぎ」という意味を持つ、少し変わった名前のバーである。
もっとも、今の店内からは、乱痴気騒ぎという言葉はあまり想像できないかもしれない。
カウンターがあり、その向こうに酒が並んでいる。
一人で静かに飲んでいる人がいる。
隣り合ったお客同士で話している人もいる。
私はカウンターの中に立ち、酒を作ったり、話を聞いたりしている。
今では、それが当たり前の光景になった。
だが、最初から棚いっぱいに酒が並んでいたわけではない。
棚の隙間を、空のボトルで埋めていた時期がある。
店を開けても、誰も来ない夜があった。
何をすれば人が来るのか。
どうすれば楽しんでもらえるのか。
どうすれば、もう一度この扉を開けてもらえるのか。
思いついたことを試した。
うまくいかなければ、やり方を変えた。
それでも駄目なら、また別のことを考えた。
正しい方法を知っていたわけではない。
自分が何を作ろうとしているのかさえ、最初から分かっていたわけではない。
半月で終わるはずだった店が、私の店になった。
少しずつ酒が増えた。
酒を教えてくれるお客が現れた。
一度、店を畳んだこともある。
棚に並んでいた酒を、友人たちの家へ運び出した。
それから約二年後、私は同じ場所へ戻ってきた。
こうして書けば、すべてが今へ続く一本道だったように見える。
しかし、そのときの私には、先に何が待っているのかなど分からなかった。
立派な目標があったわけでもない。
自分の選択が正しいという確信もなかった。
ただ、そのときにできることを考えた。
誰かに教えられ、誰かに助けられながら、次に何をするかを決めてきた。
気がつけば、私は五十歳になった。
ランバリオンは、十八年目に入った。
それでも私は、今も同じカウンターに立っている。
この場所がどのように作られたのか。
なぜ私は、ここに立ち続けているのか。
その始まりをたどるには、ランバリオンができるより、もう少し前まで戻らなければならない。
父の店で、人が笑っているのを見ていた頃まで。
私は、あの頃から何かを知っていたわけではない。
ただ、「どうしてだろう」と思っていた。
その問いが、最初の扉だった。
1.第一章 知的好奇心という病
父が、何を話していたのかは覚えていない。
どんな冗談を言っていたのか。何がそんなに面白かったのか。言葉そのものは、もう残っていない。
ただ、父が何かを言うと、周りの人たちが笑っていた。そのことは覚えている。
父はバーを経営していた。店には、いつもいろいろな人が出入りしていた。父が話し始めると、店の空気が明るくなった。
子どもの私は、それを見ながら、父は人気者なのだと思っていた。父親とは、こういうものなのだろうとも思っていた。
幼稚園の途中で引っ越してから、父とは別々に暮らすようになった。そういえば、その前から、父はそれほど家にいなかったのかもしれない。
それでも、私は父が好きだった。
会えば、いつも何かおかしなことをして笑わせてくれた。叱られた記憶も、殴られた記憶もない。
ただ、父がどんな人だったのかと聞かれると、今でも一つの言葉にはできない。
明るい人だった。
人に好かれる人だった。
新しい店や仕組みを作る人だった。
その一方で、家にいない人でもあった。
どちらか一方だけが、本当の父だったわけではない。
子どもの頃の私は、そんなことを整理して考えてはいなかった。ただ、友達の家庭と自分の家庭は、どこか違うような気がしていた。
母方の祖父が所有するビルには、喫茶店があった。
幼い頃、そこで皿洗いをすることもあった。大人たちが働き、人が出入りし、話し、笑う場所が、私にとってはそれほど特別なものではなかった。
だからといって、その頃からバーテンダーになろうと思っていたわけではない。
人を見るために、いつかバーを始めようと考えていたわけでもない。
実際は、そんなにきれいにつながってはいなかった。
私には、母親と呼ぶ人が四人いた。実母と、父が再婚した三人の女性である。
四人の母親がいたと書けば、多くの人に育てられたように聞こえるかもしれない。しかし、私にとって家族は、同じ人たちが同じ場所にいるものではなかった。
私は小学二年生の一学期まで、実母と兄と暮らした。母は、十分に私たちの面倒を見られる状態ではなかった。母と一緒にいた男性から、つらい扱いを受けることもあった。
あるとき、父と母のどちらについていくのかを問われた。私は、父のところへ行くことを選んだ。父のほうが安全だと、子どもの私にも分かっていたのだと思う。
小学二年生の二学期から、私は父と二人目の母、兄と暮らし始めた。やがて兄と私は、同じマンションの一階に住む祖父母に育てられるようになった。階段を上がれば父たちがいたが、毎日の生活を共にしたのは祖父母だった。
ただ、家にいる人が変わり、暮らす場所が変わった。そのたびに、私はまず、そこにいる人を見た。その癖は、学校が変わっても同じだった。
私は小学生の頃、二度転校し、三つの小学校に通った。
学校が変われば、それまで当たり前だったものが、当たり前ではなくなる。
友達が変わる。そこで通じる言葉が変わる。何を言えば笑ってもらえるのかも変わる。
同じ自分のつもりでも、周りが変われば見られ方が変わった。
もちろん、当時の私が、そんなふうに言葉で理解していたわけではない。
新しい場所へ行けば、まず、そこにいる人を見た。
誰と誰が仲がよいのか。
誰がよく話すのか。
誰があまり話さないのか。
何を言えば笑うのか。
そうしなければならないと教えられた覚えはない。気がつけば、見ていた。
私には、もう一人の祖父がいた。
父方の祖父である。
祖父は大正生まれだった。祖母の再婚相手だったため、父とも私とも血はつながっていない。
もともとは上石神井で暮らしていた。夜の仕事をしていた父と、まだ二十代半ばほどだった継母だけで兄弟を育てるのが難しく、頼まれて熊本へ来たのだと思う。
私は小学三年生から六年生頃までの約三年間、その祖父に育てられた。
振り返れば、人生で最も安定していた時期だったと思う。
祖父は私を特にかわいがり、私にだけ何か教育を施そうとしていた。
学校の勉強を教えることはできなかった。その代わり、私は毎日、祖父の前で字の練習をさせられた。
買い物にもよく連れて行ってくれた。ときどき、玩具も買ってくれた。
特別な出来事が続く生活ではなかった。決まった場所に帰れば祖父がいて、毎日することが決まっている。それまで何度も環境が変わった私にとって、その変わらない日々が安定だったのだと思う。
一緒に暮らさなくなった後も、家は近かった。私は、ときどき近況を報告しに行った。
祖父のことを、「悲しませてはいけない人」だと思っていた。
その後も、家にいる人は変わった。私は、母親の機嫌を見るようになった。機嫌が悪そうなら近づかない。よさそうなら甘える。学校では新しい集団になじむために人を見た。家庭では、自分を守るために相手の機嫌を見ていた。考えてみれば、実母と暮らしていた頃から、そうしていたのかもしれない。
二人目と三人目の母は、私には比較的優しかった。遊びに連れて行ってもらったこともある。だから、その頃の記憶がすべてつらいわけではない。
それでも、家にいる人が変わるたび、何が普通で、何が普通ではないのかが分からなくなった。私は周りにいる人を見た。今は話しかけてもよいのか。黙っていたほうがよいのか。
中学生になる頃から、私は家族の前で話しにくくなっていた。学校へ行けば友達は多く、普通に話すことができた。祖父母とも話せた。ところが、父や兄、母親たちの前では、自分から声を出すことができなかった。
冷たくされたから黙っていたわけではない。黙ろうと決めていたわけでもない。なぜだったのかは、今でもよく分からない。
中学生になると、学校へは昼頃から行くようになった。
朝から教室にいることが、私にとっての当たり前ではなくなった。
それでも、人との関わりを完全に断ったわけではない。友達はいたし、話す相手もいた。
外から見れば、少し変わった生徒だったのかもしれない。だが、自分では、それほど深刻に考えていなかった。
人と同じ時間に動けない。
人と同じ道を進んでいない。
では、自分は何をしているのだろう。
時間はあった。
私は本を読んだ。
何か一つの分野を極めようとしたわけではない。宇宙のことを読んだかと思えば、哲学へ行く。素粒子を調べ、生命について考え、歴史や宗教にも手を伸ばした。
一つ知ると、その中から知らない言葉がいくつも出てくる。その言葉を調べれば、さらに別の疑問が生まれる。
答えを一つ見つけるたびに、問いが二つ、三つと増えていった。
普通なら、どこかで満足するのかもしれない。
私は、満足するより先に、次が気になった。
本を読むことは、立派な勉強というより、癖に近かった。
一冊を読み終える前に、そこに出てきた言葉が気になり、別の本へ移ることもあった。最初に何を調べていたのか分からなくなることさえあった。
それでも構わなかった。
将来のためでも、誰かに褒められるためでもない。
読みたかったから読んだ。
知りたかったから調べた。
高校へ進むときも、将来の道が見えていたわけではない。
父の店の常連だった先生の勧めもあり、私は全日制の普通高校へ進んだ。
ここでも、「普通」という言葉がついてきた。
普通の高校へ行き、卒業し、その先へ進む。
けれど、そこに自分の決まった将来があったわけではない。
現状を変えたいとは思っていた。
海外へ行けば、何かが変わるかもしれない。英語が話せれば就職にも有利だろうし、何となく格好いい。
その程度の理由で、ワーキングホリデーを考えた。
海外で何を学ぶのか。帰ってきた後、何をするのか。そこまで具体的に考えていたわけではない。
まだ、自分が何を仕事にして生きていくのかも分かっていなかった。
読んできた本が、いつか仕事に役立つとも考えていなかった。
宇宙や哲学を知ったところで、酒が作れるようになるわけではない。本を何冊読んでも、それだけで店を持てるわけでもない。
実母とは、小学二年生で離れてから、まったく連絡を取らなかった。二十歳を過ぎた頃、父の店で働いていた私を、一人の女性が訪ねてきた。
「弘志はいますか?」
私は、その人が誰なのか分からなかった。
「私ですけど」
そう答えると、女性は言った。
「お母さんよ」
そこで初めて、目の前にいる人が実母だと分かった。母もまた、私が自分の息子だとは分かっていなかった。成人祝いとして革ジャンを持ってきていたが、サイズは合わなかった。母を見ても、私の感情はほとんど動かなかった。それが、実母と会った最後の日になった。
私は、母親たちの誰かを悪者にするために、この話を書いているのではない。あの頃の大人たちには、それぞれの事情があったのだと思う。子どもだった私には、その事情が分からなかった。
それでも、読んだものは私の中に残った。
後になって、年上のお客様と話すとき。知らない職業の人と話すとき。外国から来た人と向き合うとき。
本の中で拾った小さな知識が、会話の入口になることがあった。
ただ、それは後から分かったことである。
当時の私は、将来のために知識を蓄えていたのではない。
目の前に分からないことがあると、放っておけなかった。
なぜ、人は笑うのか。
なぜ、同じ言葉でも、人によって受け取り方が違うのか。
なぜ、ある人には居心地のよい場所が、別の人には居心地の悪い場所になるのか。
空や宇宙のことなら、本に答えが書いてあることもある。
人のことは、そうはいかない。
同じ人でさえ、昨日と今日では違うことを言う。
正しいと思って選んだはずなのに、後になって後悔する。
嫌いだと言いながら離れられず、大切だと言いながら傷つけることもある。
人は、一番身近にいるのに、一番よく分からない。
だから面白い。
だから、知りたい。
知的好奇心という言葉を知ったのは、ずっと後だったと思う。
それまでは、ただの「どうして」だった。
答えを見つければ、終わると思っていた。
実際には、一つ知るたびに、分からないことが増えていった。
それが知的好奇心という病なら、私はずいぶん長く付き合っている。
そして、おそらく、治す気もない。
2.第二章 話すことより、聞くこと
ワーキングホリデーへ行きたいと父に話すと、自分で金を貯めろと言われた。
そのために、父が経営するジャズバーで働き始めた。
この時点では、バーテンダーを一生の仕事にするつもりなどなかった。海外へ行くための金を貯める仕事。そのくらいに考えていたと思う。
ところが、カウンターの中に立ってみると、酒を作るだけでは仕事にならなかった。
注文を聞き、酒を作り、グラスを出す。
それだけなら、手順を覚えればできる。
難しかったのは、その後だった。
目の前にいる人と、何を話せばよいのか分からない。
ジャズのことも、ほとんど知らなかった。
お客様は、自分より一回りも二回りも年上だった。仕事も違えば、生きてきた時間も違う。会話に出てくる人や物の名前も分からない。
曲名。演奏家の名前。酒の名前。大人たちが経験してきた時代の話。
知らないことばかりだった。
黙っていれば、気まずい。
何か話さなければならないと思うほど、言葉が出てこなかった。
父は違った。
父が何かを言えば、人が笑った。難しそうに会話を組み立てているようには見えなかった。自然に話し、自然に人の輪の中心にいた。
子どもの頃から見てきた光景が、今度は比較の対象になった。
同じカウンターの中に立っても、私には父のようなことができない。
そこで、私は知識を増やすことにした。
酒のことだけではない。
音楽、映画、歴史、政治、経済、その日のニュース。
お客様との会話に知らない言葉が出てくれば、後で調べた。次に同じ話が出たときには、少しでもついていけるようにした。
子どもの頃から続いていた「どうして」が、ここで初めて仕事と結びついた。
もっとも、当時の私は、そんなふうに考えてはいない。
会話ができない。
ならば、知識を入れる。
それだけだった。
同時に、バーテンダーとしての技術も練習した。
ビルド。シェイク。ステア。
酒の量、氷の扱い、グラスの温度、道具を置く位置。動作を繰り返し、手に覚えさせた。
目の前のお客様と話しながらでも、手を止めずに一杯を作らなければならない。
技術には、ある程度の正解がある。
同じ動作を繰り返せば、少しずつうまくなる。昨日より速く、昨日よりきれいに作れるようになる。
会話は、そうではなかった。
昨日うまくいった話が、今日も喜ばれるとは限らない。同じ冗談でも、笑う人と笑わない人がいる。
こちらが一生懸命に話しているのに、相手の表情がだんだん硬くなることもあった。
そんな頃、店長だった兄から、週末の人手が足りないので、アルバイトができる人を誰か紹介してほしいと言われた。
私は友人に声をかけた。
友人は、週末だけ店を手伝うようになった。
営業中、私は友人の接客を見ていた。
あの場面では、別の言い方があったのではないか。
もう少し話を広げられたのではないか。
あのお客様は、本当に楽しんでいたのか。
営業が終わると、私は友人に駄目出しをした。
「あのときは、こうしたほうがよかったんじゃないか」
「いや、あの人には、こっちの話のほうがよかったかもしれない」
ああでもない、こうでもないと、二人でその日の接客を振り返った。
もちろん、私が正解を知っていたわけではない。
友人に何かを教えようとすれば、なぜその言い方がよくなかったのか、代わりに何を言えばよかったのかを説明しなければならない。
説明しているうちに、自分でも分かっていなかったことに気づいた。
次の営業では、別の言い方を試す。
うまくいけば残し、うまくいかなければ、また考える。
その繰り返しだった。
反省会の場所は、うどん屋だった。
二人とも金がなかった。
注文するのは、素うどんの大盛りを二杯。それに、丸天を一枚だけ頼んだ。
丸天は二人で半分に分けた。
それを食べながら、その日の接客について話した。
どうすれば会話が続くのか。
どうすれば、お客様に楽しんでもらえるのか。
どこまで話し、どこで黙ればよいのか。
高価な教材もなければ、決まった答えもない。その夜に起きたことを材料にして、二人で考えるしかなかった。
素うどんの大盛りと、半分の丸天。
今思えば、ずいぶん質素な反省会である。
それでも、当時の私たちは真剣だった。
友人の前で格好の悪いところを見せるわけにはいかないと思った。仕事では、話さなければならなかった。
友人と一緒に接客し、その日の会話を振り返るうちに、家族の前でも少しずつ話せるようになった。克服しようと決めたわけではない。気がつけば、以前より声が出るようになっていた。
私は、会話ができるようになるために、話す内容を増やそうとしていた。
だが、試行錯誤を続けるうちに、問題は話題の数だけではないと分かってきた。
人は、話を聞いてほしいときに話す。
笑ってほしいときに冗談を言う。
それ以上聞かれたくないときには、少しだけ視線を外す。
言葉と表情が一致しないこともある。
「大丈夫です」と言いながら、まったく大丈夫そうではない人もいる。
私は、会話の内容より、その人の様子を見るようになった。
表情。声の調子。視線。言葉と言葉の間。
カウンターに座っている人が、必ずしも話したいとは限らない。
一人で静かに飲みたい人もいる。考え事をしたい人もいる。誰かの話を聞いているだけで、居心地がよい人もいる。
反対に、自分からは話しかけられなくても、会話に入りたそうな人もいる。
そういう人には、少しだけ助け舟を出す。
全員を同じ輪に入れればよいわけではない。
必要なのは、話術より距離感だった。
今でも、初めて来たお客様には、普段どんな酒を飲むのかを尋ねる。
答えが出なければ、質問を変える。
甘いものが好きか。
さっぱりしたものがよいか。
炭酸は好きか。
どんな果物が好きか。
質問しているのは、酒を決めるためだけではない。
その人の答え方も見ている。
すぐに答える人もいれば、こちらの顔色を見ながら慎重に答える人もいる。自分の好みを口にすることに慣れていない人もいる。
何を飲みたいのか。
どのくらい話したいのか。
今夜、この場所でどう過ごしたいのか。
それを、少しずつ探していく。
私は、話すことを諦めたわけではない。
知っていることが、会話の入口になることはある。知らない言葉が出てくれば、今でも調べる。
ただ、知識は相手より上に立つためのものではない。
自分が知っていることを一方的に話すより、相手が何を知っているのかを聞いたほうが、面白いことも多い。
相手の話を聞けば、自分の知らない世界を教えてもらえる。
一人の人の話を、本を読むように聞く。
ただし、人は本とは違う。
こちらの読みたいところだけを開くことはできない。答えたくないこともあれば、まだ言葉にできないこともある。
だから、待つ。
話し始めたら聞く。
言葉が途切れても、すぐに自分の話で埋めない。
聞くことは、何もしないことではない。
あなたの話を聞いている。
あなたがここにいることを、私は分かっている。
そう伝えることだと思っている。
父のように話せる人になろうとしていた私は、いつの間にか、父とは違うバーテンダーになっていた。
父が話すことで店の空気を作ったのなら、私は聞くことで、その人がいられる場所を作ろうとした。
どちらが正しいという話ではない。
私には、このやり方が合っていた。
話すことより、聞くこと。
それは、会話が苦手だった私が、苦手なまま見つけた接客だった。
3.第三章 意地が、店になった
私がバーテンダーとしての仕事を覚えたのは、父が経営する、ビルの地下のジャズバー「こくてーる」だった。
その「こくてーる」の経営が、少しずつ傾いていった。
ジャズの生演奏がある店だったため、出演するミュージシャンへのギャラも必要になる。お客が入らなければ、その負担は小さくなかった。
そこで父は、店の形を大きく変えることにした。
同じ建物の二階には、ジャズライブのない普通のバーがあった。
父はその姉妹店を、一杯二百円から飲める、キャッシュ・アンド・デリバリー方式のアメリカンバーへ変えた。
店の名前は、「バー・サンクチュアリー」。
地下の「こくてーる」はクラブへ変わり、「クラブ・サンクチュアリー」になった。
二階と地下は、同じサンクチュアリーという名前を持ちながら、それぞれ違う店として営業した。
静かにジャズを聴く店から、人が集まり、音楽と酒を楽しむ店へ。
急な方向転換だった。
それが当たった。
週末になると、二つの店はお客様でごった返した。外国人のお客様も多かった。
人が多ければ、トラブルも起きる。酔ったお客同士が揉めることもあった。
それでも店は盛況だった。
当時の熊本で、最も人が集まるバーの一つだったと言っても、大げさではないと思う。
経営も持ち直したように見えた。
あるとき、父は、もっと広いビルへ移ると言い出した。
次に選んだのは、五階建てのビルだった。
それまで二階と地下に分かれていたサンクチュアリーを、一つの建物へ移す。
しかも、一階や二階だけを借りるのではない。
ビルを丸ごと使う。
こうして、五階建ての建物全体がサンクチュアリーになった。
一階はクラブ。
二階はバー。
三階はダーツ。
四階はカラオケ。
五階は、ビリヤードとバー。
酒を飲むだけではなく、建物全体で遊べるアミューズメントバーだった。
今振り返っても、父の発想は大胆だったと思う。
週末には多くのお客様が集まった。
喧嘩が起きることもあった。飲みすぎた人のために救急車を呼ぶこともあった。
問題のない店ではなかったが、少なくとも外から見れば、経営は順調だった。
普通に経営していれば、金は残るはずだった。
だが、内情は違っていた。
私を含め、店で働く人間の給料は、決して高くなかった。お客は入っている。売上もある。それでも、金は残らなかった。
私には、店で得た金に対して、両親の生活に使われる金が大きすぎるように見えた。父と四人目の母との間には、三人の娘がいた。母は洋服を買うことが好きで、娘たちの教育にも熱心だった。父は、家族から求められると断ることができなかった。
家庭での支出が、店の経営にどこまで影響したのか。今の私には、正確に分けることはできない。五階建てのビル全体へ店を広げたことにも、大きな金がかかっていた。父の経営判断もあった。複数の借金もあった。何か一つだけが、店を傾けたわけではない。
二〇〇六年から二〇〇七年頃だったと思う。兄の知人だった公認会計士が、無償で店の内情を調べてくれた。
「これで赤字になるはずがない」
会計士も驚いていた。それでも、店を立て直す方法を考えてくれた。複数の借金を一本化する計画を立て、そのために必要な銀行などとの交渉もしてくれた。
借金をまとめれば、毎月の返済を現実的な額にできるかもしれない。店も残せるかもしれない。
その計画には、連帯保証人が必要だった。私たち兄弟も、連帯保証人になるように言われた。
連帯保証人が、どれほど危険なものかは知っていた。借りた本人が返せなくなれば、自分たちが返さなければならない。サインを断る理由は、十分にあった。
それでも、私はサンクチュアリーで十年以上働いていた。長い時間を過ごした店だった。そこで出会った人がいた。覚えた仕事があった。自分がバーテンダーになった過程も、その店の中にあった。
愛着があった。潰すわけにはいかないと思った。ほかに方法があるようにも見えなかった。
私は、連帯保証人の欄にサインした。
借金を一本化しても、経営そのものが変わったわけではない。
厳しい時期は続いた。
やがて、従業員への給料が遅れ始めた。
全員に支払うだけの金がない。
そこで私は、父に言った。
「俺の給料はいいから、その分をほかの従業員に回して」
自分だけが犠牲になって店を救おうと考えたわけではない。
ほかの従業員にも生活がある。給料を受け取れなければ、働き続けることはできない。
私は家族だった。
父の店であり、自分が十年以上働いてきた店でもある。ほかの従業員より、自分が我慢するべきだと思った。
それから、私は給料を受け取らずに働いた。
一か月ではない。
二か月でもない。
その状態は、約一年続いた。
一年働いても、状況はよくならなかった。
給料を辞退しても、店を立て直すことはできなかった。
このまま続ければ、借金はさらに増える。
従業員にも、もっと迷惑をかける。
愛着があるから残したいという気持ちだけでは、もうどうにもならなかった。
私は父に言った。
「もう閉めよう」
そして、続けた。
「自己破産しよう」
父は渋った。
自分が作り、長く続けてきた店である。簡単に手放せるはずもない。
だが、約一年間、給料を払わずに働かせてきた私に対して、父も強く反対することはできなかったのだと思う。
店を閉めることが決まり、私たちは自己破産の手続きを弁護士に依頼した。
弁護士は、それまでの経緯を聞いて言った。
「普通は、もっと早い段階で判断しますよ」
店を残そうとして、私たちは長く耐えすぎたのかもしれない。もっと早く閉めていれば、借金は今より少なかったかもしれない。給料を受け取らずに働く期間も、なかったかもしれない。
しかし、どの時点なら諦められたのかと聞かれても、今の私には答えられない。そのときになって初めて、私は店を閉めることを選んだ。
サンクチュアリーは閉店した。
私は店を失った。
それだけではない。
父の借金の連帯保証人になっていた私も、自己破産することになった。
店を残すためにしたサインが、店を失った後も残った。
三十歳を過ぎて、金もない。
この先、どうやって生きていけばよいのかも分からなかった。
それまで身につけてきたものといえば、酒を作る技術と、人と話すために集めてきた知識くらいだった。
バーテンダーという仕事はできる。
だが、それだけで生活を立て直せるとは思えなかった。
私は派遣会社に登録した。
これからは、もっと安定した仕事を探さなければならない。
そう考えていたとき、以前の店に来ていたお客様から、キャバレーのビッグボックスを紹介された。
そこには、バーが併設されていた。
結局、私はまたカウンターの中に立つことになった。
休みは、月に一度ほどしかなかった。
楽な仕事ではない。
それでも、仕事があり、働けば金が入る。
少なくとも、明日をどうやって生きていけばよいのか分からない状態からは、少しだけ前へ進めた。
ただ、この仕事をいつまで続けられるのかという不安は残っていた。
体力があるうちはよい。
年齢を重ねた後は、どうなるのか。
生活を安定させるため、看護師を目指そうと考えた。
人の命を救いたいという、立派な志が最初からあったわけではない。
資格があり、仕事がなくなりにくい。これから生活を立て直すなら、現実的な道に見えた。
社会人枠の受験には、英語と小論文が必要だった。
私は仕事をしながら、熊本大学の図書館へ通った。英語を勉強し、小論文を書く練習をした。文章に慣れるため、当時流行していたSNSのmixiにも毎日のように日記を書いた。
毎日書いているうちに、頭の中にある曖昧な考えを、言葉にする習慣がついた。後になって、お客様の前で、自分が何をどう考えているのかを話すとき、その習慣は役に立ったのだと思う。
英語ができれば就職に有利で、何となく格好いい。
高校を卒業した頃は、そのくらいの理由で海外へ行こうとしていた。
それが三十を過ぎた今、生活を立て直すための受験科目になっていた。
人生は、思ったような順序では進まない。
以前に興味を持ったものが、思いがけない形で戻ってくることはある。
もっとも、このときの私は、英語や文章を書く練習が、後の接客や今書いているこの本につながるなどとは考えていない。
ただ、試験に必要だったから勉強した。
ビッグボックスで働いていると、仕入れ価格が高いことに気づいた。私は別の業者から見積もりを取り、資料を作って仕入れ先の変更を提案した。
同じものを安く買えれば、その分は店の利益になる。そう考えたからだった。
だが、提案は採用されなかった。決定するのは私ではない。雇われている以上、そこで終わりだった。
しばらくして、ビッグボックスのバー部門がなくなることになった。
その頃、新しくスナックを始めるので働かないかと声をかけられた。
私は、その話を引き受けた。
ビッグボックスには、カクテルを作れるスタッフがいなかった。バー部門がなくなれば、そこで使っていたリキュール類も必要なくなる。
私は、それを譲ってもらえないかと交渉した。新しく働くスナックへ持ち込み、作れる飲み物の幅を広げるために使った。
新しい店には、ママとその娘、学生のアルバイト、そして私がいた。
スナックで働き始めてからも、看護師になることを諦めたわけではなかった。働きながら金を貯め、いずれ受験するつもりでいた。
ただ、何の店なのかが、よく分からなかった。
スナックではある。
しかし、周りにある他の店と比べて、ここへ来なければならない理由が見当たらない。
特徴がなかった。
新しい店なのに、お客様は増えなかった。
時間だけが過ぎていった。
このままでは難しいと思っていた頃、オーナーから店を閉めると告げられた。
開店から三か月ほどだった。
私は聞いた。
「この後は、どうするんですか?」
特に何も考えていないようだった。
それなら、私に考えさせてほしいと思った。
今のままスナックを続けても、状況は変わらない。
人件費を抑えるため、一人で営業できる形にする。
そして、自分が経験してきたバーに変える。
内装をどうするか。
料金をいくらにするか。
何を仕入れるか。
何時から何時まで営業するか。
店の名前をどうするか。
思いつきだけでは、相手を説得できない。一つずつ考え、企画書にまとめた。
自分なら必ず成功できるという確信があったわけではない。
壮大な夢があったわけでもない。
ただ、このまま何もせずに店を閉めるより、まだ試せることがあると思った。
企画は通った。
新しい店の名前は、Rumbullionにした。
ランバリオン。
聞き慣れない言葉だったが、口に出したときの響きがよかった。
意味は、「乱痴気騒ぎ」。ラムという言葉の語源になったともいわれる、酒に関係する古い言葉だった。
バーは堅苦しい場所だと思われることがある。肩肘を張らず、酒と会話を楽しめる店にしたいという気持ちはあった。
だからといって、最初から深い理念を掲げ、この名前を選んだわけではない。
響きと意味が気に入った。
理由は、まずそれだった。
友人に店名を話しても、反応は「へえ」という程度だった。大きな感動はなかった。
それでも、一度聞けば覚えてもらえた。
やがて、「ランバ」「ランバリ」と略して呼ばれるようになった。
「ガンバリオン」
頑張れという意味らしい。
「エヴァンゲリオン」
響きが似ているだけである。
人が呼び、略し、ときどき別の名前に変えて笑う。
そうやって、ランバリオンという言葉は、少しずつ人の口になじんでいった。
二〇〇九年六月一日。
ランバリオンは開店した。
この時点で、私は店の経営者ではない。
企画を作り、店の名前を考え、カウンターに立ってはいたが、立場は従業員だった。
自分の店を持つという夢がかなった日ではない。
雇われた人間として、自分が考えた店を始めた日だった。
開店したからといって、急にお客様が押し寄せたわけではない。
それでも、店は始まった。
自分で仕組みを考え、名前をつけた店に立った。
まずは続けなければならない。
そう思っていた。
ところが、開店から半月ほどたった頃、オーナーが言った。
やはり、店を閉める。
三か月ほどしか続かなかったスナックをバーに変え、そのバーも半月で終わる。
私が考えた店が、半月で潰れる。
それは、人生の汚点になる気がした。
自分なら成功させられるという自信があったわけではない。
経営の経験もなければ、十分な資金もない。
店を引き継ぐことが合理的な選択だったとは、今でも言い切れない。
父や兄に相談すれば、無理をしないほうがよいという現実的な答えが返ってきた。
父の店で働くという道もあった。もっと無難な選択もあった。
おそらく、そのほうが正しかったのだと思う。
それでも、私は納得できなかった。
自分で考えた店を、何も試さないまま半月で終わらせたくない。
後になって、あの店は自分が考えたけれど、半月で潰れたと話す。
そんな未来を受け入れたくなかった。
夢というより、意地だった。
私は、見よう見まねで譲渡契約書を作った。
法律の専門家ではない。契約書を作った経験もない。
必要だと思うことを書き、自分なりに形にした。
そして、オーナーにサインを求めた。
サインをもらった。
半月で閉じるはずだったランバリオンは、そこから私の店になった。
看護師になる道を諦めたと、その場で決めたわけではない。だが、経営者になれば、店を続けることに専念しなければならない。看護師になることを考えている時間は、いつの間にかなくなっていった。
喜びより先に、現実が来た。
店を開ければ、金がかかる。
お客様が来なくても、家賃は発生する。仕入れも必要になる。
給料を受け取る側から、すべてを支払う側になった。
私は、経営者になることを目指し続け、その夢をかなえたわけではない。
ほかに行く場所がなくなり、店を手放すこともできず、気がつけば経営者になっていた。
だから、ランバリオンの始まりを、美しい物語にはできない。
覚悟があったわけではない。
成功の予感があったわけでもない。
私にあったのは、半月で終わらせてたまるかという意地だけだった。
だが、その意地が、店になった。
4.第四章 お客が棚を作る
ランバリオンとして営業を始めても、お客様は少なかった。
だから、元オーナーが店から手を引くと判断したことは理解できる。このまま続けても、利益が出る保証はなかった。
店が自分のものになったからといって、お客様が増えるわけではない。
一日に来る、わずかなお客様を相手にしながら考えた。
この店を、本当に続けていけるのだろうか。
半月で終わらせたくないという意地で引き継いだ。
だが、意地だけでは家賃も仕入れ代も払えない。
何が正しいのか分からないまま、私は毎日、店を開けた。
スナックをバーへ変える計画書を作った時点で、店名、内装、料金、仕入れ、営業時間だけでなく、お客様を呼ぶための方法も考えていた。
ドリンクは全品五百円。
飲み放題は男性二千円、女性千五百円。
カラオケは無料。
店内にはポップを作り、オリジナルカクテルカードも置いた。新規開店の店だけが利用できる無料情報誌の記事にも掲載してもらった。
一つが失敗してから、次を試したのではない。
金をかけずにできることは、開店と同時に始めた。
オリジナルカクテルカードの原型は、ビッグボックスで働いていた頃に作ったものだった。
ビッグボックスのバーへ、どうすればお客様を呼べるのか。
私は、在籍していた女の子全員に、それぞれの名前をつけたオリジナルカクテルを作ることを提案した。
自分の名前がついたカクテルがあれば、バーに興味を持ってくれるかもしれない。それをお客様に勧めてくれれば、バーを利用する人も増えるかもしれない。
ただ、在籍していた女の子は五十人から六十人ほどいた。
一人ずつ好みを聞いていたら、いくら時間があっても足りない。
そこで私は、好みを記入できるカードを作った。
甘口か、辛口か。
酒は強めがよいか、弱めがよいか。
炭酸は入れるか。
どんな果物や味が好きか。
材料によっては、色も選べるようにした。
希望する項目を丸で囲んで、カードを渡してもらう。私はその回答をもとに、一人ひとりの名前をつけたカクテルを作った。
最初は、バーを利用するお客様もそれなりに増えた。
期待したほどの結果にはならなかったが、少しは効果があった。金のかからないアイデアでもあり、自分の知る限り、同じことをしているバーもなかった。
ランバリオンでは、そのカードをお客様自身のために使うことにした。
お客様は、甘さや酒の強さ、炭酸の有無、好きな果物、希望する色などに丸をつける。
私は、その回答をもとに一杯のカクテルを作った。
カクテルの名前を知らなくても、自分の好みなら選べる。お客様は、自分で一杯を組み立てていく過程も楽しんでくれた。
ただ、カードに書かれた条件を、そのまま再現できるとは限らない。
たとえば、カルーアを使って緑色のカクテルを作ってほしいと言われる。
カルーアは黒に近い濃い褐色なので、そのまま緑色にすることはできない。
その場合は、何を優先したいのかを改めて尋ねた。
カルーアの味なのか。
緑色の見た目なのか。
条件を機械的に組み合わせるのではない。お客様が本当に求めているものを聞き、可能な形へ調整する。
カードは今でも、きちんと使えば機能すると思う。
ただ、一枚ずつ回答を確認し、条件を組み合わせて作るのは案外時間がかかる。そのため、今ではほとんど使っていない。
代わりに、お客様と直接話しながら好みを聞く。
かつてカードに書いていた質問を、今は会話の中で尋ねている。
カードそのものは使わなくなった。
だが、カードによって身につけた聞き方は、今も私の接客に残っている。
料金についても、営業しながら変えていった。
来店したお客様には、最初に尋ねた。
「飲み放題もありますが、どうしますか」
一杯ずつ注文する場合は、どのドリンクも五百円。
飲み放題なら、男性二千円、女性千五百円。
お客様自身に、飲み方を選んでもらった。
カラオケも、当初は無料だった。
しかし、一杯だけを注文し、無料のカラオケを使いながら長時間過ごす人が現れた。
お客様にとっては、安く楽しめる。
だが、それでは店が成り立たない。
そこで、カラオケを有料に変えた。料金は、確か一時間五百円だったと思う。
ただし、飲み放題を選んだお客様は、追加料金なしで利用できる。
すると、カラオケを楽しみたい人は、飲み放題を選ぶようになった。その結果、客単価も少し上がった。
最初に決めた仕組みに、こだわる理由はなかった。私は、お客様の行動を見ながら、店が成り立つ形へ少しずつ作り直していった。
飲み放題を選ぶ人が増え、開店当初よりは売上を見込めるようになった。
店を続けるという意味では、前へ進んでいた。
それでも、私は考えるようになった。
自分がやりたかったバーとは、これなのだろうか。
全品五百円と飲み放題。
安く酒を飲み、カラオケを楽しんでもらう。
それを喜ぶお客様はいたし、店の売上にもなった。
だが、私はもっと多くの酒を置きたかった。
バーテンダーとして、自分自身も成長したかった。
酒の種類が少なければ、作れるカクテルも、提案できる飲み方も限られる。
お客様の好みを聞き出せても、それに応える材料がなければ、一杯にはできない。
しかし、全品五百円のままでは限界がある。
仕入れ値の違う酒を、いつまでも同じ値段で出すことはできない。
最初に考えたのは、酒によって一杯の値段を五百円単位で変える方法だった。
五百円。
千円。
千五百円。
だが、それでは余程の酒好きでない限り、多くのお客様は一番安い酒を選ぶだろう。
高い酒をそろえても、注文されなければ意味がない。
百円ほどの細かい単位で価格を変える方法も考えた。
それなら仕入れ値に合わせた料金にはできるが、どこにでもある普通の料金表になる。ランバリオンを選ぶ理由になるような意外性はない。
そこで私は、酒一杯の値段ではなく、店全体の客単価から考えることにした。
当時の客単価は、およそ二千円だった。酒の種類を増やし、店を続けていくには、三千円以上は欲しかった。
ただ値上げをするだけでは、お客様の負担が増える。どうすれば、お客様にも得をしたと感じてもらえるのか。
それまで、ランバリオンはチャージを取っていなかった。ならば、逆にチャージを払うことで、酒を安く飲める仕組みにしてはどうか。
こうして思いついたのが、ダートチープコースだった。
料金は千五百円。コースを選べば、ほぼすべての飲み物が通常価格の約半額になる。
通常価格で三千円分を注文した場合、半額になった酒代とコース料金を合わせて、支払額は三千円になる。それを超えて飲むほど、お客様の得は大きくなる。
店は必要な客単価を確保しやすくなり、お客様は普段なら値段を見て避ける酒も試しやすくなる。
ただチャージを取るのではない。
先に支払った料金が、その後の割引として意味を持つ。
この仕組みに、私は「ダートチープコース」と名づけた。
「dirt cheap」は、「ものすごく安い」「激安の」という意味で使われる英語のスラングである。
酒を安く飲める仕組みに、その言葉がよく合っていた。
もう一つの由来は、『ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン』に登場するスタンド、D4Cである。
D4Cは、「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」の頭文字から取られている。
私はジョジョが好きだった。
「激安」という仕組みの内容と、好きな作品に登場する名前。その二つが重なって、ダートチープコースになった。
普通のバーにはない料金制度なのだから、名前まで普通にする必要はないと思った。
他のバーにはない仕組みだったため、最初は戸惑う人も多かった。
それでも、一度説明すれば、お客様は案外すんなり受け入れてくれた。
「今日は一杯だけ」と立ち寄った人は、無理に使わない。通常料金で飲めばよい。
仕組みを知った人は、
「次にゆっくり飲めるときに使うね」
と言ってくれた。
ダートチープは、説明すれば多くのお客に理解してもらえた。
ダートチープによって、ランバリオンは「すべての酒が五百円の店」から、さまざまな酒を手頃に試せる店へ変わり始めた。
ある日、常連のお客様が冗談めかして言った。
「ラガヴーリン16年を入れてくれたら、もっと頻繁に来るのになあ」
ラガヴーリン16年は、安いウイスキーではない。
それまで、ほかのお客様から注文されたこともなかった。一本仕入れたところで、どれほど飲む人がいるのか分からない。
売れる保証はなかった。
それでも、飲みたいと言うお客様がいる。
ならば、入れてみようと思った。
私は翌日、ラガヴーリン16年を仕入れた。
すると、そのお客様は翌日も来店した。
本当に棚に並んでいるのを見て、ひどく驚いた。
お客様にとっては、冗談交じりに言った一言だったのかもしれない。
しかし、その一言を私が覚え、本当に行動へ移したことは、「自分の話を聞いてくれていた」という証拠にもなった。
多くの人が求めていると分かってから仕入れたのではない。
目の前の一人が飲みたいと言ったから、仕入れた。
その後は、私からお客様に飲みたい酒を尋ねることもあれば、お客様のほうから銘柄を指定されることも増えていった。
注文された銘柄がなければ、仕入れられる範囲で翌日に用意した。
もちろん、すべての注文を聞くことはできない。
手に入りやすいか。
価格は店に見合っているか。
私自身も興味を持てる酒か。
そうしたことを考えながら、仕入れる一本を選んだ。
次にそのお客様が来たときには、前回なかった酒が棚に並んでいる。
一度の注文が、一本の仕入れになる。
一本増えると、店の品ぞろえに期待する人が増える。
期待されれば、また別の銘柄を尋ねられる。
そうして酒棚が広がるほど、酒棚はさらに広がっていった。
酒屋へ通う回数も増え、店の人とも次第になじみになった。
おすすめのウイスキーを教えてもらうことも増えた。
やがて、その酒屋へウイスキーを探しに来た人に、店の人がこう勧めるようになった。
「買う前に、まずランバリオンという店へ行って、試しに飲んでみるといいですよ」
酒を仕入れるために通っていた酒屋が、今度はランバリオンへお客様を紹介してくれるようになった。
お客様の要望が酒を増やし、酒屋の助言が酒を増やした。
増えた酒が新しいお客様を呼び、そのお客様が、また次の一本を教えてくれた。
棚に酒が増えるほど、お客様から質問されることも増えていった。
どこの国の酒なのか。
どのような樽で熟成されたのか。
なぜ、この香りや味が生まれるのか。
同じ蒸留所の酒でも、何が違うのか。
酒を置くだけなら、仕入れれば済む。
だが、お客様から尋ねられたとき、曖昧なことを答えるわけにはいかない。
できるだけ正確な情報を伝えたかった。
私は、ウイスキー検定やウイスキーコニサーの教科書、過去問題を使って勉強した。ウイスキーに関する動画も、見つけたものから片っ端に観た。
試験そのものは受けなかった。
資格が欲しかったというより、お客様の疑問に真摯に答えるための知識が必要だったからだ。
もちろん、義務感だけでは続かなかったと思う。
調べれば、また知らないことが出てくる。
原料、製法、熟成、土地、歴史。
一本のボトルの向こうに、いくつもの疑問があった。
お客様に答えるために始めた勉強は、私自身の知的好奇心も満たした。
だからといって、すべてのウイスキーが分かるようになったわけではない。
今でも、知らない銘柄を言われることはある。次々に発売される限定ボトルまで、すべてを把握することはできない。
そういうときは、知ったかぶりをしない。
お客様に教えてもらう。
お客様も詳しく分からなければ、その場で一緒に検索することもある。
バーテンダーだからといって、カウンターの中にいる人間だけが教える側である必要はない。
お客様のほうが詳しいこともあれば、二人とも知らないこともある。
ならば、一緒に調べればよい。
正確な情報を伝えるということは、何でも知っているふりをすることではない。
分からないことを分からないと言い、確かめることでもある。
酒棚だけではなく、私の知識も、お客様によって作られていった。
二〇一六年の熊本地震より前のことだった。
ある日、俳優の藤原竜也さんが来店した。
注文されたのは、ジョニーウォーカーのブルーラベルだった。しかし、そのときのランバリオンには置いていなかった。
そこで、その日は白州を飲んでもらった。
藤原さんは、「また明日来る」と言ったわけではない。もう一度来店するかどうかも分からなかった。
それでも私は、翌日、ジョニーウォーカーのブルーラベルを仕入れた。
すると、その夜も藤原さんが来店した。
昨日はなかったブルーラベルが棚に並んでいる。本当に仕入れていたことに驚き、ひどく喜んでくれた。
そして、店内にいた人たちに向かって言った。
「これ、俺の好きなウイスキーなんですよ」
藤原さんは、その場にいた全員にブルーラベルを振る舞った。
一人のお客様のために用意した一本が、その人だけの酒ではなくなり、その夜、店にいた全員で楽しむ一杯になった。
藤原さんは何度も、
「いい店ですね」
と言ってくれた。最後には、藤原さんのほうから握手を求められた。
相手が有名人だから、特別なことをしたわけではない。ラガヴーリン16年を仕入れたときと同じだった。
飲みたいと言ったお客様がいて、仕入れられる酒だったから、翌日に用意した。
お客様がもう一度来るかどうかは、店には決められない。それでも、もう一度扉が開いたときに、前の会話の続きを用意しておくことはできる。
最初は、空のボトルで隙間を埋めていた棚だった。
そこへ、お客様が飲みたいと言った酒が一本ずつ加わった。酒屋に教えられた酒が加わった。私自身が調べ、飲んでみたいと思った酒も加わった。
その棚が、一晩で壊れた。
二〇一六年の熊本地震が起きた日のことだった。
最初の地震が起きたのは、木曜日だった。
その日は休みで、私は自宅にいた。店は男性アルバイトに任せていた。
強い揺れが収まった後、私は店へ電話をかけた。
電話に出たアルバイトの声は震えていた。
「かなりのボトルが割れました」
私は、危険だから帰るように伝え、すぐに店へ向かった。
店内は、めちゃくちゃになっていた。
棚から落ちたボトルが割れ、床には酒とガラスが散乱していた。リキュールやウイスキーが混ざり、店の中には異様な臭いが広がっていた。
私は、一人で少しずつ片づけた。
棚から落ちたのはウイスキーだけではなかった。リキュールも含め、相当な数のボトルが割れていた。その中には、高級ウイスキーや限定ウイスキーも含まれていた。
酒やグラス以外には、大きな修理が必要になる被害はなかった。
片づけが進むほど、棚はすかすかになった。
起きたことは仕方がない。また頑張ればよい。その日は、そう思うことができた。
翌日は金曜日だった。最低限営業できるよう、私は酒屋へ向かった。
だが、酒屋も悲惨な状態だった。
私は残っていた酒の中から店で使えそうなものを選び、購入した。店員には、
「大変ですね」
とだけ伝えた。
翌日は普段どおり営業したが、店は暇だった。
それでも、常連のお客様が一人来てくれた。
二人で話しているうちに日付が変わり、土曜日になった直後、本震が起きた。
停電し、非常灯だけが灯った。前日に片づけた店が、もう一度めちゃくちゃになった。棚に残っていたボトルも落ち、割れた。
揺れが収まると、私は残っているウイスキーと、割れずに残ったグラスを探した。
私は見つけた酒を二つのグラスに注ぎ、お客様と乾杯した。
何かを祝ったわけではない。ただ、その状況で二人とも無事だった。酒とグラスが残っていた。だから、乾杯した。
やがて、非常灯も切れた。
私たちは暗くなった店を出て、二人で階段を下りた。
別れ際、私は言った。
「靖国で会おう」
こんなときでさえ、口から出たのは、ひねくれた冗談だった。だが地震直後は、この先に何が起きるのか、本当に分からなかった。
前日は、「起きたことは仕方がない。また頑張ろう」と思えた。
正確に数えられたわけではないが、二度の地震を合わせると、割れたボトルはリキュールを含めて百三十本ほどになった。
二度目には、さすがに気持ちが萎えた。
せっかく片づけた店が、また壊れた。残った酒を並べ、足りない酒を買い、もう一度営業できるところまで戻した。それが、一日でまた失われた。
誰かの責任ではない。誰かを責めることもできない。だからこそ、どこにもぶつけられない怒りが湧いた。
私は思った。
「地震が百本のボトルを割るなら、俺は二百本のボトルを揃える」
『古事記』には、イザナミが一日に千人の命を奪うと告げ、それならばイザナギは一日に千五百の産屋を建てると返す場面がある。
当時、その話を意識して言ったわけではない。ただ、以前に読んだ言葉が、頭のどこかに残っていたのかもしれない。
冷静に考えて出した経営判断ではない。見通しがあったわけでもない。
ただ、このまま負けたような気持ちで終わりたくなかった。
本震の後も、私は一人で店を片づけた。
ビルの給水タンクに残っていた水を使い、断水する直前に、どうにか片づけを終えることができた。
自宅も断水した。店には商品がほとんど残っていなかった。
ランバリオンは、一週間以上休業した。
水道が戻り、酒屋にも少しずつ商品が戻り始めた頃、営業を再開した。
再開してもしばらくは暇だった。それでも、常連のお客様が一人、また一人と戻ってきた。
蓄えは少なく、一週間以上、収入もなかった。失った酒を、一度に買い戻すことはできない。
それでも、以前より速いペースで酒をそろえた。売上があれば、次の一本を仕入れた。
そうして約一年で、酒棚は地震前の水準まで戻った。
私は店を作った。だが、最初の酒棚を、私一人で作ったわけではない。
そして、地震で壊れた酒棚を、私一人で元に戻したわけでもない。
酒を飲みに戻ってきたお客様がいた。その一杯の売上が、次の一本になった。
棚に並ぶ一本一本の向こうに、その酒を教えてくれた誰かの顔があった。
お客が棚を作る。
それは、地震の後も変わらなかった。
5.第五章 強くてニューゲーム
二〇一六年の熊本地震で失った酒は、約一年をかけて、地震前の水準まで戻った。
その後も、酒は少しずつ増えていった。
店を開ければ、誰かが扉を開けた。地震の直後には暇だった店にも、少しずつ人が戻った。
ランバリオンは、また日常を取り戻した。
その日常が、今度は地震とは別のものによって止まった。
二〇二〇年、新型コロナウイルスが広がった。
人が集まることそのものが避けられるようになった。
バーは、酒だけを売る場所ではない。
人が同じ空間に集まり、隣り合って座り、会話をする。
それまでランバリオンが大切にしてきたものが、そのまま感染の危険と結びついた。
営業を続けるべきか。
店を閉めるべきか。
すぐに答えを出せたわけではない。
そんなとき、友人が私を家に呼んでくれた。
二人で酒を飲みながら、これからどうするかを話した。
友人は、一度店を閉めてはどうかと勧めた。
半月で終わらせたくないという意地から始まり、十一年近く続けてきた店である。
閉めるという言葉を、簡単に受け入れられたわけではない。
だが、先の見えない状況で営業を続ければ、店だけでなく、自分の生活まで立ち行かなくなるかもしれない。
一度閉める。
そう考えたとき、店にある酒をどうするのかという問題が残った。
私は、その友人に尋ねた。
「それなら、店の酒を預かってくれないか」
友人は、快く引き受けてくれた。
しかし、店の酒を箱に詰めると、二十箱以上になった。
いくら一軒家でも、それだけの量をすべて預けるわけにはいかない。
私は、ほかの二人の友人にも協力を頼んだ。
二人とも、酒を預かることを引き受けてくれた。
こうして、店の酒は三人の家に分けて保管してもらうことになった。
閉店作業と酒の運搬を手伝ってくれたのは、酒を預かってくれた三人とは別の友人だった。
その友人が、トラックを出してくれた。
二〇二〇年四月末。
私たちは、棚に並んでいたボトルを箱に詰め、店の外へ運び出した。
お客様の要望で仕入れた酒。
酒屋から勧められた酒。
私自身が興味を持って選んだ酒。
十一年近くかけて増やしてきた酒が、二十箱以上の段ボールに収められていった。
酒棚は、お客様や酒屋とのつながりによって作られたものだった。
その棚を空にするときも、何人もの友人が力を貸してくれた。
酒は捨てなかった。
売り払ったわけでもない。
友人たちの家へ分けて預けた。
一度店を閉めることと、すべてを諦めることは、同じではなかった。
そのとき、二年後に同じ場所で再開できると確信していたわけではない。
いつか必ず戻ると、強く宣言したわけでもない。
ただ、ランバリオンで作ってきたものを、すべて手放したわけではなかった。
店を畳んだ後も、私には責任が残っていた。
預けたものを守ってくれている友人がいる。ランバリオンの復活を信じている人もいる。いつか、その人たちとの約束を果たさなければならないと思っていた。
再開にいくら必要なのかは分からなかった。だから、できる限り生活を切り詰めた。
食事は基本的に自炊した。娯楽や勉強には、インターネットと図書館を利用した。
最初の約一年は、知人に紹介された内装会社で働いた。
壁紙を張り替え、清掃をし、ビルの点検もした。
初めは好奇心もあった。知らない仕事ではあったが、できることは頑張ろうと思っていた。
しかし、私はその環境にうまく適応できなかった。
叱られると萎縮した。萎縮すると、かえってミスが増えた。次は失敗しないようにと思うほど眠れなくなり、眠れないまま仕事へ行く日も増えた。
安全面に不安を感じる作業もあった。
会社には会社のやり方があり、仕事を覚えるためには厳しく言わなければならない場面もあったのだと思う。ただ、当時の私には、その厳しさを受け止めながら仕事を続ける余裕がなかった。
次第に、会社からも退職を促されているように感じるようになった。
約一年で、私は内装会社を辞めた。
自分なら、別の仕事でもそれなりにやっていけると思っていた。その自信は、かなり失われていた。
その後、以前登録していた派遣会社から紹介を受け、本田技研の工場で働くことになった。
仕事は、決められた単純作業の繰り返しだった。
強く叱られることはなかった。職場の人と深い関係を作らなくても、目の前の作業を続ければよい。内装会社より、私には気楽だった。
工場の中には、携帯電話を持ち込むことができなかった。
休憩時間になっても、することがない。そこで私は、本を持っていくようになった。
読むジャンルは決めなかった。気になった本を、手当たり次第に読んだ。
中学生の頃、時間があれば本を開き、知らない言葉から次の本へ移っていた習慣が、思いがけない場所で戻ってきた。
店を失い、人との関わりが少ない仕事をしていた二年間にも、私の「どうして」は残っていた。
不安と寂しさのある時間だった。
ときどき友人が誘ってくれた。誰かと食事をし、話をする。その時間が励みになった。
工場では、深い関係を築かずに働く気楽さも知った。それでも、ランバリオンへ戻るつもりは変わらなかった。
酒を預かり、復活を待ってくれている人たちとの約束があった。何より、内装の仕事や工場の仕事より、ランバリオンで働くほうが楽しかった。
私は何度も繁華街へ足を運び、街の様子を見た。
明確な根拠があったわけではない。それでも二〇二一年の秋頃になると、街が少しずつ良くなっているように感じた。
十一月十日頃、以前ランバリオンがあった場所を見に行った。
まだ空いていた。
私は向かいの店を訪ね、ママと話した。
ママは、ランバリオンがなくなって寂しい、早く戻ってきてほしいと言った。私が戻ってくると思い、内見に来た人にも、できればこの場所を空けておいてほしいという趣旨のことを話してくれていたらしい。
本田技研との契約は、二〇二二年四月一日まで残っていた。
私は、それまで毎月五万円を支払うので、場所を押さえてほしいと交渉するつもりだった。
ところが、テナントの担当者へ連絡すると、すでに別の人との契約が決まっていた。
元の場所へ戻る道は、なくなった。
落胆はした。だが、店を再開できなくなったわけではない。
たかがプランAが駄目になっただけだ。私のプランはEまである。
そう考え、別の場所を探すことへ切り替えた。
それから十日もたたない、十一月十九日頃だった。
仕事を終えて携帯電話を確認すると、テナントの担当者から着信が入っていた。
先に決まっていた契約が、キャンセルになったという。元の場所を借りるかと聞かれた。
私は、借りたいと答えた。ただ、本田技研との契約は四月一日まで残っている。
「今の仕事の契約が残っているので、四月からでも大丈夫ですか」
電話の向こうで、少し間があった。
担当者は、ゆっくりと答えた。
「分かりました。あなたを優先します」
私は礼を言って、電話を切った。
そして、人のいるロッカールームで、携帯電話を手にしたまま深々と頭を下げた。
誰に向かって頭を下げたのか、自分でも分からない。
当時の日記には、こう書いている。
「僥倖っ……! なんという僥倖!」
元の場所には、自分で手を加えた内装が残っていた。冷蔵庫や製氷機などの設備も、そのまま使うことができた。
すべてを一からそろえる必要がない。大きな借金をせずに、再開できる見通しが立った。
本田技研との契約を終えた後、二〇二二年四月から再開の準備に入った。
店をどのような形にするか、基本的な構想はすでに考えていた。友人たちにも意見を聞いた。
大きく計画を変えるためではない。自分がよいと判断したなら、そのまま進めてよい。そう確認できたことで、私は安心した。
友人たちの家へ預けていた酒や荷物を、店へ戻した。
長い間場所を使わせてもらったのだから、少しでも礼をしたかった。私は少額の金を渡そうとした。
だが、誰も受け取らなかった。酒が店へ戻っていくのを、皆、笑顔で見ていた。
以前の店を、そのまま戻したわけではない。内装に手を加え、前よりもバーらしい空間に作り直した。
二〇二二年四月二十九日と三十日、プレオープンを行った。
親しい人たちに声をかけ、ささやかなプレオープンにするつもりだった。ところが、再開を知った人たちも顔を見せてくれた。
店は二年間、閉まったままだった。
それでも、ランバリオンが再び扉を開く日を待っていた人がいた。
五月一日。
ランバリオンは、正式に営業を再開した。
カラオケは置かなかった。
もともと、私はカラオケが好きではなかった。
誰かが歌っている間は、会話ができない。
開店当初は、集客のために必要だと考えていた。実際、カラオケを目当てに来る団体のお客もいた。
しかし、ランバリオンは、私自身が「あればよい」と思うバーを形にするために始めた店でもある。
一度閉じ、もう一度始めるのなら、今度は自分のしたいやり方で営業しようと思った。
不安はあった。
カラオケがなければ、団体のお客は減る。
売上も減るかもしれない。
それだけではない。
カラオケに場を任せることができなくなる。
来てくれた一人ひとりと向き合い、退屈させないように接客しなければならない。
自分に、それができるのだろうか。
それでも、カラオケは戻さなかった。
予想したとおり、団体のお客様は減った。
その一方で、一人や少人数で来るお客様が増えた。
店内の会話が歌に遮られることもなくなった。
私は以前より、一人ひとりの表情を見て、話を聞くことに集中できるようになった。
失った客層はあった。
だが、その後に残った空間には、私が作りたかったバーの時間が流れるようになった。
以前の常連のお客も、思っていたより早く戻ってきてくれた。
店は二年間、閉まったままだった。その間に生活が変わった人もいる。飲みに出なくなった人もいれば、別の場所へ移った人もいる。
全員が戻るとは思っていなかった。それでも、扉を開ければ、懐かしい顔がカウンターに座った。
再開したランバリオンは、ゼロから始めた店ではない。
酒があった。設備があった。経験があった。失敗したことも、自分が作りたい店の形も、以前より分かっていた。
何より、戻る場所を守り、復活を待ってくれている人たちがいた。
最初の開店では、何が正しいのか分からないまま、思いつくことをすべて試した。二度目は、以前の私より、何を試せばよいのかを知っていた。
ゼロからの再出発ではない。いわば、「強くてニューゲーム」だった。
もちろん、前より有利な条件だけがそろった再出発ではない。以前とまったく同じ店へ戻すつもりもなかった。
残したいものを残し、変えたいものを変える。
友人たちに預けていた酒は戻ってきた。店を覚えていたお客様も戻ってきた。そして、再び開いた扉から、新しいお客様も入ってきた。
店は、ゼロからやり直したのではない。
一度閉じた場所で、前の会話の続きを始めた。
6.第六章 まだ、途中にいる
二〇二六年七月二十八日、熊本で再び大きな地震が起きた。
令和8年熊本地震である。
地震が起きたとき、私は自宅のベッドにいた。そろそろ起きて、店の開店準備を始めようとしていた頃だった。
激しい揺れを感じ、私は思った。
またか。
自宅では、ドラム式洗濯機、棚、食器棚、テレビなどが倒れた。
私は、一緒に暮らしていた彼女と二人で、それらを元の場所へ戻した。
自宅がある程度片づくと、今度は店のことが気になった。
私は彼女に、
「何かあれば、すぐ戻る」
と伝え、ランバリオンへ向かった。
店の鍵を開ける瞬間、十年前のことを思い出した。
扉の向こうが、どうなっているのか分からない。
店内はかなり乱れていた。本棚などが倒れ、グラスは約二十五個割れていた。棚とは別の場所に飾っていたミニボトルも、一本だけ割れていた。
しかし、酒はほとんど無事だった。高級グラスも割れていなかった。
二〇一六年の地震後に改装した際、酒棚へ細い鉄製の落下防止バーを取り付けていた。
十年前の経験から加えた、目立たない鉄の棒だった。それがボトルの落下を防いでいた。
私は一人で片づけ、約二時間で終えた。
それから、心配している彼女のもとへ急いで戻った。
余震が来るたびに、彼女は怖がった。私はそのたびになだめた。
十年前は、最初の地震の翌日に本震が起きた。
今回も、翌日にさらに大きな地震が起きるかもしれない。
そう考え、次の日は店を開けず、自宅に残った。
大きな地震は起きなかった。
地震から二日後、私は店を開けた。
しかし、午前零時を過ぎても誰も来なかった。私は、いつもより早く店を閉めた。
この原稿を書いている二〇二六年八月現在も、お客の足が地震前まで戻ったとは言い難い。
来店したお客様とは、
「地震、どうだった?」
という言葉が、挨拶のようになった。
地震の後、返信するのが大変になるほど多くの人から心配するメッセージが届いた。私はSNSで店と自分の無事を知らせた。
中には、十年以上会っていない昔のお客様からの連絡もあった。
長い間、店へ来ていない。それでも、熊本で大きな地震が起きたと知ったとき、その人はランバリオンを思い出した。
連絡をもらったときの感情を、うれしいという一言だけで表すことはできない。
それでも、ランバリオンは今も、その人の記憶の中に残っていた。かつて、この店で過ごした時間までなくなったわけではなかった。
私にとっては、十年ぶり三回目の大きな地震だった。
二〇一六年の最初の地震。その翌日に起きた本震。そして、二〇二六年の地震。
今回は、十年前ほど多くの酒を失わずに済んだ。十年前の経験が生きたのだと思う。
だからといって、地震を乗り越えたとは、まだ言えない。
店内の片づけは終わった。酒も残った。店も開けることができる。
しかし、お客様が街へ戻り、以前と同じように夜を過ごすようになるまでには時間がかかる。
現在も、災害の後の途中にいる。
私は、その途中で、できることを続けている。
最近は、三Dプリンターでコースターやオリジナルキーホルダーを作っている。
キーホルダーには、店の口コミへつながるQRコードを付けた。検索やAIを通して店を知ってもらうための工夫も始めた。
自分に美術的な才能があるとは思っていない。三Dモデルを作った経験もなかった。検索やAIについて、最初から詳しかったわけでもない。
それでも、調べれば、できることがある。分からなければAIに聞き、思った形にならなければ指示を変える。
店を始めた頃と、していることはあまり変わらない。
最初から確かな答えがあったことなど、一度もない。
二〇二六年六月一日。
ランバリオンは、開店十七周年を迎え、十八年目に入った。
二〇二六年八月十二日。
私は、五十歳になった。
その夏、私は、入籍を控えた彼女と暮らしていた。
今日も店へ行く。
照明をつける。
カウンターを拭く。
棚に並んだボトルを見る。
私が選んだ酒がある。お客様に教えられて仕入れた酒がある。酒屋に勧められた酒がある。
一度は友人たちの家へ運び出され、二年後に戻ってきた酒もある。二度の地震を生き残った酒もある。
この棚を見れば、店が私一人で作られたものではないことが分かる。
棚だけではない。この店の空気も、ここへ来た人によって変わってきた。
金曜日と土曜日には、mnaというイラストレーターが店を手伝っている。
mnaが初めてランバリオンへ来たのは、二〇二五年の半ば頃だった。彼氏と二人で、Googleマップを見て店を訪れ、やがて一人でも来るようになった。
年末が近づいた頃、私は尋ねた。
「週末、ここでアルバイトしない?」
二〇二五年十一月の終わり頃、まずは一度、試しに働いてもらった。その後は、金曜日と土曜日の両方を手伝ってくれるようになった。
mnaは、誰かの会話へ自然に入る。私が別のお客様を接客していれば、ほかのお客様と話す。帰るお客様には、次の会話につながる言葉をかける。私一人では同時にできないことを、mnaが引き受けてくれる。
もっとも、時間どおりに来ないことも多かった。定刻を過ぎて扉が開くと、私や常連のお客様が笑う。最近は時間どおりに来ることもある。すると今度は、「面白くない人間になったなあ」と言われる。そんな冗談が通じるくらいには、mnaも店の一部になっている。
あるとき、彼女が描いた作品をいくつか見せてもらった。きれいな絵だった。私は、ランバリオンに飾らないかと提案した。今では、店内に彼女の作品が並んでいる。酒のボトルだけでなく、そこで働く人が作ったものも、この店の景色になった。
夜が深くなり、最後まで残った常連のお客様がいると、誰からともなく言い出す。
「資さんうどん、行くか」
店を閉めた後、何人かで資さんうどんへ向かう。うどんを食べながら、そこでも酒を飲み、店でしていた話の続きをする。翌日になれば、皆が二日酔いで後悔する。それでも、次に同じような夜が来れば、また誰かが同じことを言う。
初めて来店した一人のお客が、やがて常連になった。その人が、今はカウンターの中から、別のお客様を迎えている。
7.エピローグ カウンターに立つ
この本の始まりには、父のカウンターがあった。
父が何を話していたのかは覚えていない。
ただ、父が何かを言うと、周りの人たちが笑っていた。
私は、その光景を見ていた。
同じカウンターに立つようになっても、私には父のようなことはできなかった。
父のように話そうとして、知識を増やした。友人と会話を練習し、その日の接客を振り返った。
それでも、父のようにはなれなかった。
やがて私は、話すことよりも、目の前にいる人の話を聞くようになった。
父と同じバーテンダーにはならなかった。
父とは違うやり方で、カウンターに立つようになった。
ランバリオンを始めた頃、父は店について口を挟んだ。私には、店主としての明るさや華やかさが足りないと言った。
もっとこうしたほうがよい。
人気者だった父は、話すことで店の空気を明るくした。私は、同じやり方ができなかった。父には父の店の作り方があり、私にはまだ、自分の店の作り方がなかった。
反発することもあった。面倒だと思うこともあった。
それでも、父の言うことを完全に無視することはできなかった。
ダートチープを始め、酒が増え、店が少しずつ形になっていくと、父は何も言わなくなった。
直接褒められたことはない。
「よくやった」と言われたこともない。
「お前をバーテンダーとして認める」と言われたこともない。
ただ、店に口を挟まなくなった。
私は、それを父なりの評価だったのではないかと受け取っている。
本当のところは分からない。父に確かめたことはなかった。
父は脳梗塞の後、話すことができなくなった。
そして、二〇二五年十二月に亡くなった。
最後まで、答えを聞くことはできなかった。
だからといって、父の沈黙に、都合のよい意味を持たせるつもりはない。
認めていたのかもしれない。ただ、何も言わなくなっただけかもしれない。
今となっては、確かめることはできない。
父のカウンターから始まった私は、今も自分のカウンターに立っている。
それが父への答えになるのかは分からない。答えにする必要もないのかもしれない。
今から十四年ほど前、私が三十六歳になる年のことだった。私は、以前の結婚を報告するため、父方の祖父に会いに行った。
祖父は、父の育て方について悔いを口にし、私に謝った。そして、泣いた。
祖父が泣いているところを見たのは、そのときが初めてだった。
私を特にかわいがり、毎日字の練習をさせ、何かあれば話を聞いてくれた祖父だった。その祖父が、涙を流しながら言った。
「ひろしだけは幸せになってくれ」
私は、
「大丈夫だよ。俺は幸せになるよ」
と答えたと思う。
祖父に会ったのは、それが最後になった。
あの言葉があったから、ランバリオンを作ったわけではない。
それぞれの選択をしたとき、祖父の言葉を意識していたわけでもない。
ただ、いろいろなことがあった後も、その言葉は私の中に残っている。
私は、幸せになるために生きている。
やがて、店の扉が開く。
一人で来る人がいる。誰かを連れてくる人がいる。久しぶりに顔を見せる人もいれば、初めてランバリオンを訪れる人もいる。
私は、その人が何を飲みたいのかを尋ねる。
話したければ、聞く。
一人で静かに飲みたければ、無理に話しかけない。
父のように、店中を笑わせることはできない。
それでも私は、私のやり方でカウンターに立っている。
ときどき、お客様から聞かれる。
「いつまで続けるんですか」
私は答える。
「店に立てなくなるまでです」
開店した頃の私は、自分の行く場所を失いたくなくて、この店を手放さなかった。
今は、この店がなくなれば行く場所を失うと言う人がいる。
私の居場所だった店が、いつの間にか、誰かの居場所にもなっていた。
もっとも、私が誰かに居場所を与えたという話ではない。
この場所は、お客や友人、ここで働く人たちと一緒に作ってきた。
私もまた、この場所を作った人たちによって、ここにいさせてもらっている。
この本を読んでも、正しい生き方は分からない。私にも、まだ分からない。
連帯保証人になる危険を知りながらサインし、一年近く給料を受け取らずに働いた。看護師を目指しながら、半月で閉じるはずだった店を意地で引き継いだ。一度は店を畳み、同じ場所でまた始めた。
そのすべてが正しかったとは言えない。別の選択をしていれば、もっと楽に生きられたのかもしれない。
ただ、こう選んだ人間がいた。
そして、その選択の先で、今もカウンターに立っている。
それでも、店を開ける。
明日は、誰かが扉を開けるかもしれない。
店に立てなくなる、その日まで。
私は、ランバリオンを続ける。